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城郭・城下町

【倉敷】美観地区の景観はどうして生まれたの?意外と知られていない倉敷美観地区3つの転機

【倉敷】美観地区の景観はどうして生まれたの?意外と知られていない倉敷美観地区3つの転機
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岡山屈指の観光地と言えば倉敷の美観地区

わたしも「あれ、美観地区って岡山だっけ…?」
っていうぐらい、岡山って事を忘れてました…笑
倉敷、って地名のほうが有名な感じがしちゃう。

そんな倉敷って、昔は遠浅の海だったそう。
それは戦国時代よりさらに前の時代の事で
その後新田開発で徐々に埋め立てられてきた場所なんです。

埋め立てられた新田には、塩分をよく吸い取る
綿花が植えられ、そしてこの綿花が後々さらに
倉敷の発展につながっていきます。

今回は倉敷を訪れる前に知っておきたい
倉敷美観地区の歴史について
3つの転機をさらっとおさらいしましょう!

転機①:江戸直轄領 天領倉敷の誕生

倉敷という町が一躍有名になるのは江戸時代
実はそんなにすごく昔の話でもないんです。
(なんてったって昔ここは海!)

江戸時代倉敷幕府直轄地に指定されました。
いわゆる、天領ってやつです。
(天領っていう名称は実は明治時代にできて
後から「あそこは昔天領だった…」って呼ばれるようになりました)

天領というのは藩主の代わりに
幕府が直々に治める土地の事。
幕府から任命・派遣されてきた
地方官=代官が仕事をするための
代官所、が置かれたのがこの美観地区のあたりでした。

この倉敷のもう少し内陸のほうに
備中松山城というお城があります。
一時は、備中松山藩に組み込まれ
備中松山藩の外港として、またそののち天領として
倉敷にたくさんの物資が集まってくるようになりました。

特に今も流れる倉敷川の周辺はさらに埋め立てが進み
内陸となってからも、内陸の港町として繁栄します。

ここは年貢などの物資輸送の中継地となり
さらに新田開発で多く植えられた綿イグサが豊富に取れたため
綿やイグサの取引が盛んにおこなわれるようになります。
物資があれば、取引があれば、集まってくるのは商人…
綿やイグサの取引で財を成す商人が出てきて
さらにそういった商品を保管するためにも
川の周りに蔵が多く立ち並ぶようになりました。

倉敷 美観地区 倉敷川

今現在に伝わる美観地区の景観が出来上がったのは
こうした背景に支えられた、江戸時代の頃でした。

転機②:倉敷を代表する企業 クラボウの誕生

天領のまま明治維新を迎え
幕府直轄領(天領)はそのまま新政府直轄領となります。

代官所は廃止され、倉敷は回りの村や町と一緒に
岡山県に統合されました。

そして明治21年、倉敷を代表する会社が設立されます。

倉敷紡績株式会社

クラボウの名前で親しまれるこの会社の工場は
かつて代官所があった跡地に建てられました。

この二代目の大原孫三郎さんと
三代目、大原總一郎さんによって
倉敷の町は今現代に残っているといっても
過言ではないぐらい!

大原孫三郎さんの支援により
日本を代表する洋画家:児島虎次郎
ヨーロッパに渡り、多くの美術品を収集。

それをメインにして
1930年に日本初の私設西洋美術館である
大原美術館が開館しました。

ここにはモネの睡蓮や、エル・グレコの受胎告知
ピカソゴーギャンルノワールなどなど、名だたる画家ばかり。
そしてロダンの彫刻が3点
展示されているのです。

倉敷 美観地区 大原美術館

一説には、この大原美術館
倉敷の町を守った…なんて説も。
さて、どういう事でしょう?

転機③「倉敷川畔特別美観地区」の誕生

日本本土も多くの空襲を受けた第二次世界大戦

岡山県も岡山市の空襲で岡山城が焼失したり
同じ倉敷市内の水島は壊滅状態になっています。

倉敷には紡績工場があったぐらいですし
航空機工場もありました。
それでも倉敷が空襲を受けなかった理由。
それが、大原美術館が所蔵する
世界的に有名な絵画・彫刻だった、というのです。

ひとつの定説にすぎないし、
残念ながら米軍側の資料に
美術品を理由に空襲対象から外す、という記載はありません。
否定をする学者もいれば、京都・奈良が大きな空襲を受けなかったように
米軍側にも文化財を気にする人がいた、と提言する人もいます。

倉敷のはっきりとした航空写真も撮られていて
近々空襲が計画されていたのも事実だと思います。

でも、倉敷は空襲を受けなかった

大事なのはその結果の部分。
倉敷は空襲を受けなかったから…
江戸時代の街並みを、わたし達は今見ることができるんです。

倉敷 美観地区 倉敷川

大原孫三郎氏によって始まった倉敷の町並み保存
大原總一郎氏はヨーロッパで訪れた
中世の建造物を後世に残す
ドイツのローテンブルグの町並みを見て
『倉敷をローテンブルグのようにしたい』と思ったそうです。
(ローテンブルグ綺麗だし、屈指の観光地だしね)

川沿いの古い土蔵を利用して倉敷民藝館や倉敷考古館が開設され
古い町屋は旅館へ用途を変え
柳並木の植栽が行われました。

倉敷 美観地区 倉敷川

そして、倉敷市がまず自身で「倉敷市伝統美観保存条例」を制定。
その後からも「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受け
昔と変わる事のない景観が保存され
わたし達は今も美しい町並みに触れることができています。

 

たかが400年、されど400年。
日本の長い歴史の中から見たら短い時間かもしれませんが
大戦での戦災や、地震・洪水といった自然災害と
常に隣り合わせでもある日本で
この町並みが美しく残っているという事は
本当にすごい事なのです。

写真で見ても綺麗!と思える景色。
生で見たらさらなる感動に出会えること間違いなしです!

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