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日本文化

【厳島】厳島神社と武将~戦国時代~

【厳島】厳島神社と武将~戦国時代~
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平清盛を筆頭に平家一門に篤く保護された厳島神社

その後も時の権力者からの信仰は集めたものの
残念ながら平家滅亡・世の中の情勢不安と共に
しばらくの間廃れていました。

そんな厳島神社でしたが
再び大物から篤く信仰される時がやってきます。

戦国随一の知将:三本矢の逸話で有名な
中国地方の覇者のあの人です。

厳島神社紹介

戦場になった神の島

厳島合戦、というのがあったのをご存知ですか?
…知らないですよねー(笑
歴史の教科書にも載っていないぐらいだと思います。

1555年、この厳島は戦火に見舞われます。

戦国随一の知将:毛利元就
下剋上で主君(大内義隆)を討った陶晴賢(すえ はるたか)

陶氏は…歴史好きじゃないと知らないかな?

毛利元就は三本矢の逸話でも有名ですね。
1本の矢は簡単に折れてしまうけど
3本の矢は簡単には折れない…
って息子達3人に今際の言葉に伝えた、って話…
(厳密には元就よりも息子の隆元のほうが
先に死んじゃってるので創作だって言われてるけど)

この元就は元服前から厳島神社を参拝していて
その信仰も大きかったそうですが…

毛利軍は約4,000~5,000ほどの軍で
2万余とも言われる大軍:陶軍を
厳島に誘い出します。

陶軍は現在の豊国神社あたりに陣を敷き
そこを毛利軍が急襲。
狭い島内に多勢がひしめきあう陶軍陣内は大混乱となり
敗走、主将:陶晴賢は自刃
このあと陶家、大内家は衰退し
毛利氏が中国地方での勢力を拡大していきます。

陶・大内氏と毛利氏の行く末を二分したこの戦いは
日本三大奇襲戦に挙げられるほど有名…有名?笑
(ちなみにあとの二つは一の谷合戦と桶狭間合戦。
こっちはわりと有名…だと思うんだけど…笑
一の谷の代わりに河越夜戦ってこともある)

厳島内にはこんな看板も建てられています。

厳島合戦跡看板

入念な戦後処理

願わずとも、かつては禁足地とまでされた
神聖なる厳島を戦場にしてしまった毛利元就

神様がいらっしゃる神域を
血で汚してしまったわけです。
(しかも大量に!)

ただし毛利元就、戦後処理もしっかりやりました。

まず合戦による死者をすべて対岸に運び出し
島内の血がしみ込んだ部分の土までもを削り取りました。
晴賢の首実検ももちろん対岸で。

社殿や回廊を含め、血で汚れてしまった厳島神社全体は
すべて潮水で洗い流し、清めます。

さらに合戦の翌日から1週間にわたり
神楽などを奉納し、万部経会を行い死者の冥福を祈ります

あんまり知られていないけど、戦国時代って
一度合戦が終われば、弔いは両者両軍の死者を弔うのが通常。
昨日の敵は明日の…的な。…友ではないか。

さらに元就は神社にも最大の敬意を払い
その後も社殿の整備から島の保全まで
しっかりケアを欠かしません。

ちなみに元就、この後今度は完全に
本殿に対立した和智兄弟が立てこもり
本殿の中で殺害、という完全にアウトな事件もやってのける(笑
この時は社殿が汚れたとして、本殿を建て替えているため
今の社殿はこの時(=室町時代)に建て替えられたものになるけど
その様式は清盛の時代(=平安時代)の様式を継承していると言われています。

結果、元就厳島神社側から訴えられる事もなく
祟り的なものに合うこともなく
中国地方の覇者として、今日まで伝わっているわけです。

親の信仰を受け継いだ息子

この厳島合戦の間に
もう一つ神社を大切にしていたという話があります。

陶晴賢の重臣、弘中隆包(ひろなか たかかね)と交戦した
元就の次男:吉川元春 (吉川家当主)

隆包晴賢を逃した後、自分たちも退路確保のため
左右の民家に火を放ちながら敗走します。

これにびっくりしたのは元春のほう!

「弘中を逃しても、神殿を焼かすな!」

と命じて社殿の焼失を防いだとも。
(だったらこんなとこで戦すな!と言いたいが
まぁ…勝つための策だもんねぇ…)

子が守り、父が整えた
毛利家と厳島神社のつながり

神社紹介の記事のはずが
歴史記事になっちゃいました(笑

でもそれぐらい、神社・文化・歴史は
切っても切れないものなので
いっそのこと一緒に知る、って方法で
楽しんでみてください^^

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