
日本に古来から続くものを語るうえで
やはり歴史との結びつきは切っても切れません。
特に有名なものであればあるほど
有名な人の庇護を受けている可能性が高い。
(逆にめっちゃ迫害されたってケースもある)
幸いなことに、広島:厳島神社は
有名人の庇護を受けるほうでした。
大きく神社に関わった有名人が2人。
まずは1人目、平清盛と厳島神社についてお話しますね。
安芸守:平清盛
その昔、まだ厳島神社のある場所が
【広島】ではなかった頃…すっごい昔(笑
現在の広島のあたり一帯は【安芸国】という国でした。
“国”と言っても国家ではなくて
当時の地方行政区分の呼び方です。
1146年、平清盛が安芸守(あきのかみ)に任命されます。
安芸守=中世の日本で国の行政官として中央(=京)から安芸の国に派遣された官吏

平清盛は安芸守に就いたことで、瀬戸内海の制海権を手にいれます。
今のように鉄の塊(=飛行機)が空を飛ぶこともなければ
鉄の塊(=電車)が高速で陸を駆け抜けることもまだない時代において
瀬戸内海の制海権を手に入れることは、清盛に莫大な利益をもたらしました。
それはなぜか…
当時北九州までしか来航しなかった中国(=当時は“宋”)からの船を
平氏の名のもとに畿内まで招きいれることができるようになったからです。
瀬戸内の航路を確保すると同時に大輪田港(=神戸港)を整備。
そしてここで清盛が力を入れたのが、かつてから信仰していた
厳島神社の新しい社殿建立・整備でした。
なぜ厳島だったのか
厳島神社の御祭神は宗像三女神だとお伝えしました。
(基本情報はここを見てね
【広島】神の宿る島の神社)
この三女神は
*海の神
*交通運輸神
*財福の神
*技芸の神
として信仰を集めているんですが…
ほら、清盛の求めている加護とマッチ!
海での交通は当時まだまだ命懸けな部分もあったし
仮に沈没、なんてことになったら莫大な被害だって出ます。
そういうのをひっくるめて、深く信仰していくにあたり
よりいい環境を三女神のために整えたのだと思います。
何より…厳島神社のあるあたりは、瀬戸内海航路の要衝でもあったしね!
平安時代が見れる!?
平清盛が厚く信仰し、社殿を整えた、というのは前述のとおり。
すごいところはその姿を今、皆さんも目にすることができること。
残念ながら清盛の時代に建てられた社殿そのものは火災でなくなってしまっていますが
その建築様式は当時のまま。
社殿は【寝殿造】という建築様式で平安時代から中世にかけて
日本で発生した建築様式です。
今は見ることがなかなか難しい造りですが
この、平安時代の建築様式を残している、というのも
世界遺産に登録された大きな理由のひとつなんですよ。
特徴としては各部屋が長い廊下で囲われて
屏風や御簾(みす=すだれ)などで仕切られていること。
まぁ神社の社殿なので、完全に寝殿造かと言われると
そうでもないところではあるんですが…
厳島神社のほかには、京都御所の紫宸殿や清涼殿なんかも
寝殿造が現存している有名な例です。
そんな観点から観光地めぐってみるのも面白いですよ…!!
盛者必衰の理をあらはす…
平家最盛期の頃、この厳島神社も大層栄えていました。
今も続く【管弦祭】もこの頃始まったお祭りですし
清盛が都から貴族たちを呼び宴を催すことで
都の文化なども入ってくるようになるわけです。

By 歌川広重 – Museum of Fine Arts, Boston, online database, パブリック・ドメイン
清盛が大阪:四天王寺の舞楽を
厳島神社に移したこと…なんかは有名ですね。
しかし皆様歴史の授業でご存知の通り…
清盛の信仰により平家一門に篤く信仰された厳島神社ですが
清盛の死、都落ち、壇之浦での滅亡と続き
世の中の情勢が悪化していくのと同様に
厳島神社も荒れていきます…
そうして歴史の表舞台からも一度姿をひそめた厳島神社。
それを再度篤く崇敬し、社殿修復などを行ったのが…
戦国随一の知将とも呼ばれる中国地方の覇者。
誰だかわかりますか?笑
次回紹介いたしますね^^
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